Mother

おままごと

モンゴルでおままごと。石を並べてゲルを作って。

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The children were playing house, of Mongolian Ger. The girls team.

Хүүхдүүд айл гэр болж тоглож байсан. Охин баг.

おままごとって、将来絶対に役立つ遊びだとおもいます。

だって、頭のなかで親が行う仕事を思い出して、再現するんですから。

つまり、いずれ生活の中で実践される行為の予習ですよね。

 

しっかり、お客さんをもてなす事を考えていましたよ、チーム女子。

家族を紡いでいくこと

私は、家族写真を撮るのも、撮られるのも大好きです。

家族写真の依頼をいただくと、心から嬉しい。

小さな子がいたら中腰になって、お祖母様がいらしたら手を伸ばす。そんなお互いを思いやる風景を間近で見せていただいてます。そして、みんなが笑っている。けれども街に住んでいると、三世代や四世代が一度に揃うことは少なくなってきているのではないかと思われます。「家族で写真を撮ろう!」と改めて思い集まることそのものが、「家族を思う」ことに繋がっているのではないかと思いました。

それは、のちに生まれるであろうこれからの家族へも遺せるものの一つであるし、きっと、それは見る人の心を支える一つになりえるんじゃないかと思えるのです。

私の主人が、本堂で法話をするとき、目に見えないご先祖様のはなしをするときがあります。そんなとき、私は写真が想いを馳せる助けになっているところを何度も見ました。

かといって、日々、写真を撮ることに躍起になるのもどうかと思います。撮る行為と、日々を過ごす行為は違うからです。かくいう私も、撮る側だと自分は写らない。。。私の自分の家族写真は、私が写っていることが少ないため、子供達に「この時、ママどこなの?」と聞かれることも。ママ、撮ってるんだよ。だから、私もそろそろ家族写真、撮ろうか!そう思ってます。改めて思い立つ、そんな行動がバランスが取れて丁度いい。

そんな思いから、私は依頼いただいたら、子供達に残したい、そんな家族写真を努めて撮ろう、そう思っています。

お母さんの壁掛け・トゥスキーズ〜想いの輪廻〜

昨年、私はカザフ人の町、ウルギーで古い壁掛けを手にしました。完全な形では無く、切り取られた跡もありました。

家族のために刺繍され、家を飾るという本来の役目を終えて、今私の元に来たこのトゥスキーズ。かすれて読めないけど、「〇〇へ 1963」と刺繍されている。どんなお母さんが、どんな子のために送ったのだろう?

私は、消えないお母さんの想いに後押しされて、家族と子供達にこの古いトゥスキーズで服を縫うことにしました。一着目は、1963年に縫われたこの布で自分が袖を通す分を縫いました。

今年、この誂えたベスト(ミシペット)を着てウルギーへ訪問しました。みんな珍しそうに振り向いて笑ってくれました。

いいねいいねと言ってくれた鷹匠のお宅の娘さんに、着てもらって撮った写真がこれです。

私の手元には、今、役目を終えたトゥスキーズが数枚かあります。ハサミを入れられない気持ちと、刺繍との対話を繰り返し、じっくり形にしようと思います。

会ったことのないカザフ人のお母さん、あなたの想いに私の想いをちょっとだけのせていいですか?

Text by Kei Hompo

 

 

初夏のモンゴル訪問2017-2

バヤンウルギーからウランバートルへ戻り、中央モンゴル地域では、ちょこちょこ顔をださせてもらっている牧民さん家族のところへ駆け足で訪問しました。何度訪れても沢山のことが勉強になります。何度もなんども行くことで、やっと少しだけ「大地と共に生きること」がどういうことなのかということに近づけるのかも知れない、だから何度でも行かなければならないのです。でなければ、私は撮ることもできない。

そして、自然環境がちょっと違う地域、ゴビ地域へは10年ぶりでした。今回、牧民さんのお宅へは行かなかったのですが、そのかわりに、野生動物の住まう場所イフガザリンチョロー自然保護地域にて野宿してきました。改めて、「大地に住まうこと」を考えるのには最高のロケーションです。黙々と歩き、登り、下り。アイッベックスが猛スピードで岩山を駆け上がっていく様に、自身のひ弱さを気持ち良いくらい実感できました。人は、謙虚であらねばならないな、そう思わされる場所です。

しかし、テクテク歩く私が出会ったのは、大自然で勇猛に生きる雄々しい生き物、ではありませんでした。『大地に住まう母』たちでした。

初夏は、子育てシーズン真っ最中で、クロハゲワシの巣をたくさん目にすることができます。お母さんの足元には可愛いヒナが。私の姿を見て、お母さんは飛び立ちましたが、近くの岩山からじっとこちらを見張っているようでした。おっかない顔つきなのに攻撃することもしない。なんだか、ここに立って見ているだけで申し訳ない気分になる。もし私が子供たちに授乳してる時に、じっと誰か知らない人に、赤ちゃん可愛いねってじっと見られてたら嫌だわ、そう思うと早々に移動せざるを得ませんでした。

岩山をのろのろ登っている間、足元から小さな鳥が羽ばたいて行ったことが2度ありました。手を伸ばせば届く距離です。それが意味していたのは、卵を抱いていた巣があることでした。私が迫っても、ギリギリ、本当の生命の危機のギリギリまで卵を抱いていたということになります。覗き込むと、小さい小さい巣の中の卵はうっすらピンクがかっていてきっともうすぐヒナが孵ることがわかりました。

鳥の巣の本を読んで知ったのですが、鳥は飛ぶために体を軽くする必要があります。そのために、卵を一度にたくさん体の中に作らず、安全な場所に一つずつ産んで置いておける場所を体の外に作ったのが鳥の巣であり、巣は家ではなく、『お母さんの子宮』なのだそうです。

鳥の巣はお母さんの子宮。

鳥の巣の中の卵をみると、私の娘は目を輝かせます。何か特別なものを扱うような気持ちで接する存在のようです。私も何故が、心が動く。涙が出そうな気持ちにすらなる。

そうか、ママのお腹だったんだ。

写真を撮ると早々に移動したけれども、小さい罪悪感が残りました。

アイベックスも、私が出会ったのはオスの群れではなく、子連れのメスの群れでした。崖の上から私を見つめるお母さんの視線。どうやったら言葉の通じないあなたたちに敬意を表せるのだろうか。子育ての大きな揺りかごであるこの地に、わたしがお邪魔させてもらって、することが許されているのはそのまま立ち去ることだけのように思いました。

これら全て、実に私らしい出会いでした。もしかしたら、『大地に住まう母』に出会わせてやろうと、天が図ったのかもしれない。今一度、母の想いを考えるきっかけを頂きました。

このまま、全ての母が、心安らかに子育てできることを切に願います。

Text by Kei Hompo